体験的演技論     演出家 石塚 克彦
狂言師の稽古は猿に始まる(二)

 狂言師・山本東次郎の立ったままで、身じろぎもしないのに付けている翁の面が、深い哀しみの表情から、満面の喜びの表情へと変化する不思議を見たのは私が16才のときだった。それから十数年が経ち、その不思議について、なる程という納得のような感じを持つことが出来た。
 その間私は絵描をめざし、画家の弟子になり美術学校に入学し、古美術を学びたいと奈良に遊学してるときに、奈良で演劇関係の人の知己を得て、芝居の世界に入った。
 芝居の世界で仕事を始めたのは、美術の分野からであったが、いろんな経緯(いきさつ)があり、私は自分で脚本を書き、演出にまで手を出すようになっていた。
 その頃、医学の世界では、大脳生理学と呼ばれる学問が急浮上して、人間の感情というのは、人体の様々な部分の筋肉の運動であると解明している。
 たしかに、人体をどう解剖したところで、感情を司る部位や器官などどこにも見当たらない。
 腹が立つというのは、ほんとうに腹部の筋肉が隆起することであるし、恐ろしくて背中がゾクッとすると感じるのも、背中の筋肉の収縮による。
 胸キュンなどとの表現もあるが、それとて心臓や肺につながる筋肉の運動なのである。
 役者のなかには、胸の当たりに感情を司る器官があるかのように信じている者もおり、やたらと胸から声を出している。そんな役者には、胸を切り開いて見ろ!そこには心臓と肺があるだけだぞ!と演出中に怒鳴りつけたりすることとなる。
 狂言役者は、人間の感情を理解し、身体のあらゆる筋肉を自在に操る訓練が出来ているのだろうと思い至った。
 人はたしかに同じような姿勢で立っていても、哀しいときは、どうしたの?と声をかけてやりたくなるような哀しさを全身に漂わせており、同じ姿勢でも嬉しいときは喜びの表情や雰囲気をかもし出している。
 山本東次郎師の翁の面(おもて)の表情の変化は、面が変化したのではなく、狂言師・東次郎の肉体・筋肉がコントロールされ、喜びや哀しさを生きるために収縮したり解放したり、運動し変化する。そして全身の存在そのものが、喜びや哀しさの雰囲気・空気をかもし出す。翁の面は、全身の変化の通りに表情を変えるのである。
 「少年、お腹に力を入れれば、言葉を発しなくても、大切なことを語りかけることが出来るのだよ。それが腹芸。いつかわかるときが来るよ」と言った山本東次郎の言葉が、わかるような気がしたのであった。
 チャーリー・チャップリンという俳優は、ボードビル(歌・ダンス・軽業・寸劇などを組み合せた大衆的な芸)出身で、そのアクションや体芸はそれだけで観客を笑わせ魅了した。
 チャップリンが名作「ライムライト」を最後に撮り、逝ったとき、全世界がその芸を惜しんだ。
 その後、日本に来て狂言を観たアメリカの演劇学者が、日本には何人ものチャーリーが居ると言ったという。
 チャーリー・チャップリンは徹底的に鍛え抜かれた身体の芸で、人間の深い哀しみや喜びを表現した芸人であった。狂言師・山本東次郎もまた、鍛え抜かれた体技で人間の哀しみや喜びを表現することができる、ど偉い役者であることを私は知っている。

 チャップリンや、東次郎師のように、幼少の頃からショービジネスの現場や流派の訓練から始まった人は、私が付合う役者の中にはめったに居ない。
 演技というと顔で表情をつくってしまったり、声音を変えてそれらしく台詞を喋ってしまったり、肺と心臓しかない胸を意識的に詰まらせ、その気持ちになり切ったつもりになったりと、腹芸に取りくむ役者にはめったにお目にかかれない。
 身体の必要な部位の筋肉を的確に起動させて演技をするということは、よほどの訓練を積んだ者にしか出来ないことではあるが、臍(へそ)より下の身体を使って掴まえた情感は顔の表情にも台詞の声音にもちゃんと反映して、説得力のある演技になるよと、くり返し言ってやるのが私の演技指導の要となっている。
 実際、顔や声音をつくることに頼らない、と心がけてくれただけでも、体の表情が少ししっかりし、豊かになるようで、私はそれで満足している。

 さて、狂言の稽古は猿に始まって狐に終わると言われている。「靭猿(うつぼざる)」という演目から稽古を始め、技術も体力も充実して来る時期に卒業公演のように「釣狐(つりぎつね)」という演目を上演し、一人前の狂言師として認められるという慣わしのようである。
 「靭猿」も「釣狐」も実にドラマチックで面白い演目だ。
 「靭猿」は狂言師の家に生まれると四〜五才で舞台を踏まされると言う。修行の始まりだ。私は「靫猿」の猿の役は四〜五才の子供にしか出来ない役ではないかと思っている。その、あどけない無邪気さがドラマのチャーム・ポイントだからである。
 話は、やることがなく退屈している大名(だいみょう)が、ひまつぶしに小者を連れ弓矢を持ち狩りに出かける。
 そこで大名は猿廻しに出会う。大名は猿廻しの連れている小猿の毛皮が欲しくなる。弓の矢を入れて持ちはこびするケースを靭というのだが、靭は漆塗りの容器であり、傷をつけないよう動物の毛皮でカバーをつくるのが当時の流行だったらしい。
 大名は猿廻しに猿をよこせという。
 猿廻しは、猿はメシのタネだから渡せないという。
 無茶な話だが、大名は腕づくでも取ると弓に矢をつがいおどすのである。現代で言うならピストルを突きつけるようなものだ。
 猿廻回しは仕方なく、矢で射たのでは猿の毛皮に傷が付く、私は猿についてはプロであるから、棒で急所を叩くと一撃で殺すことができるという。
 大名は、じゃアすぐ殺せと言う。
 猿廻しが棒を振りあげると、小猿はその棒を掴みとり、船を漕ぐ仕草をする。
 小猿は猿廻しが棒を持ったのは、仕込まれたばかりの船漕ぎの芸をしろと命じられたと思ったのである。
 ひたすら無邪気に船を漕ぐ芸をする小猿を見て、猿廻しはたまらず泣きくずれる。
 それを見ていた大名も小猿の健気さに心動かされ、こんな可愛い芸をする小猿を殺す訳にはゆかないと反省する。
 喜んだ猿廻しは、お礼にと小唄を歌い小猿に舞わせるのである。
 その可愛らしさに感動した大名は、持ち合わせていた短刀や扇や衣服を猿廻しにプレゼントし、猿と一緒に舞い踊るのである。
 そのときの小猿の邪気のない健気さこそが、観客に受ける仕掛けなのだと思う。四〜五才にして、観客に受ける体験をするなんて、舞台人のスタートとして、こんな凄いしあわせはないのではなかろうか。
 この演目で演技力が必要なのはシテ(主役)の大名とアド(相手役)の猿廻しである。小猿はひたすら無邪気に振るまい存在してればよい。
 大蔵流狂言では、ただ無邪気に存在しているだけの初舞台を嫌ってか、稽古始めの演目は短いコントの様な演目「伊呂波(いろは)」か「痿痺(しびり)」でデビューする。「伊呂波」は親が子に文字通りイロハニホヘトを教えこもうとして、子供に反抗される話である。「痿痺」は使用人がシビレる病気だと仮病を使って仕事をサボろうとする話である。コントのような短い演目だが、いきなり相当な演技力を試される。それはそれで修業のきびしさを考えれば納得できることではあるが、私は子供の頃しか出来ない無邪気さを生かした「靭猿」が好きだ。
 それにしても、高校時代に三世山本東次郎の翁に出会わなかったら、私は狂言に関心を持たなかったろう。芝居を仕事としている者として、その出会いそのものが不思議な喜びである。