体験的演技論     演出家 石塚 克彦
山本東次郎師の腹芸(一)

私にも少年時代はあった。
 高校に入学し、自分の教室が決まったその日。
 学ラン(学生服)を着た先輩たちが竹刀を持ってドカドカとやって来て「今から校歌の練習を始める!」と叫び、蛮声を張りあげ、それについて歌わされた。
 男だけの蛮声で歌う校歌には、芸術性のかけらもないが、入学したばかりの私には、これが高校生活なのかと新鮮で、何かヤル気のようなものを起こさせてくれた。

♪天を動かし地をゆする
 その功績も何ならじ
 固き心の一筋に
 励まばなどか成らざらん

 ところが後日、街の映画館で観た「明治一代女」の中で、校歌と同じメロディーが聞こえて来たのである。映画の中に出て来るチンドン屋のクラリネットが奏でる音が、まさに伝統あるわが校の理想をうたった校歌?なのだ。その安っぽく哀れっぽい音がである。
 実はわが校の第一校歌は、ドイツ海軍の軍歌の賛歌だったのである。これにはズッコケた。
♪煙も見えず雲もなく〜〜のあの歌であった。
 初夏の日差しがやけに明るくなった頃、情操教育をやるからと、全生徒が講堂に集められた。
 校歌の一件で学校の文化度にがっかりしていた私は、情操教育なるものに何んの期待もしていなかった。
 漢文の瀬尾先生が、こんな田舎町では絶対!お目にかかれない狂言の大先生がお話しくださるのだと、興奮気味に解説をした。私は能書きの長いものにロクなものはないと小馬鹿にし、講堂の隅の方に陣取った。
 講堂の舞台に現れたのは、少し太めの背の低い気さくなオジサンだった。
 オジサンの言うには、狂言役者というのは巾広い知性とたゆまぬ肉体の訓練が必要であり、戦争中の空襲のさ中でも、戦後の食糧難のときでも、勉強と厳しい訓練を怠ったことはない。だから狂言役者は、どんな表現も出来るようになるのだと話した。
 私は、自分で自慢するなんてロクなもんじゃないと思っていた。
 そうした私たちの反応を見すかしたように、口じゃなく、見てもらわなきゃァなと、いきなり、小っちゃなポーターブル・プレイヤーでチャイコフスキーの白鳥の湖をかけ、踊り出したのであった。
 ちょっと太めのオジサンが白の胴衣に襷がけ、浅葱色の太郎冠者の狂言袴でバレエの白鳥の湖を踊るのである。
 それが、まぎれもなくバレエの白鳥の湖の世界であった。
 講堂の高窓から斜めに差しこむ初夏の光が、一瞬スポットライトのようにさえ感じられた。
 これが大蔵流狂言の名手・三世山本東次郎であった。私は講堂の隅に陣取ったことを後悔した。
 山本東次郎は、何んの解説もなく、初夏の陽光が差しこむ、舞台下手(南側)の全面にすくっと立った。そして黙って面をつけた。
 いきなりの白鳥の湖に度肝を抜かれた生徒たちも、東次郎を黙って見つめた。
 面は老人の面であったが、狂言の黒式尉(こくしきじょう)ではなく能面の翁であった。
 面をつけて自然体で立つ姿には、何げに見えるのに存在感、説得力があった。
 そして翁の面は翳り出し、見るみる哀しみの表情に変化していった。翁の面は哀しくて、身も世もなく哀しく、涙がとめどなく流れ出ているかに見えた。身じろぎひとつしないのに。
 それが再びゆっくりと変化し、そして急速に笑みに変わってゆくのである。今度は見るみる満面の笑みが広がり、嬉しくて楽しくて、嬉しくて、今にも手を振り足を踏み踊り出しそうな様である。
 その間、山本東次郎の身体は身じろぎひとつしていない。
 東次郎のつけた翁の面に、雲にさえぎられた陽光が陰り、そしていっぱいの日差しが戻ってきたような錯覚にとらわれた。山本東次郎の姿勢はそのままに、自然体から哀しみへ、そして喜びの表情へと面だけが変化したのである。翁の面が身も世もないような人生の哀しみから、満面の喜びの表情に変化した、ただそれだけの変化に胸打たれた。
 自然体に戻った山本東次郎は、翁の面をはずし、「しっかりと観てくれましたか」と言った。
 講堂に集まった生徒の半分が拍手をし、あとの半分は訳がわからずキョトンとしていた。情操教育の授業は、それで終わった。

 翁の面は木の彫り物である。筋肉が動いたり変化したりする訳がない。なのに、どうしてあんなに哀しく、あんなに嬉しそうな表情に変化するのだろう。
 木彫りの造型が変わらないなら、光線の角度が変化し、光のつくる陰が表情の変化をつくるのだろう。
 私はそう思った。
 それを山本東次郎に尋ねて、確認したかった。
 山本東次郎の楽屋には講堂のうしろにテントを張ってつくってあった。私はそのテントを訪ね、私の考えを話した。
 着替えの最中だった東次郎は、その手をとめ「ホー」と言って私を見た。そして「少年、いい質問だ」と言った。だが面に当たる光の角度で陰が変化し、表情が変わると考えるのはわかるが、全然ちがうのだよという。
 だって、面は彫りものだから、変わる筈ないでしょう。なのに確かに表情は変化したと、私は喰いさがった。
山本東次郎は"腹芸"という言葉を聞いたことがあるかいと言う。そしてよく見てなさいと、面をつけ、舞台でやったことを、もう一度やってくれた。
 テントの中の光も変わらなければ、面も動かなかった。なのに翁の面は哀しみ、あふれる喜びの表情へと変化した。そして山本東次郎は「これが腹芸なのだ」と言った。
 私は、その不思議を目の当たりにしながらも何故そうなるか、彫りものの面が何故変化して見えるのか理解も納得も出来なかった。
 山本東次郎は「少年、いまはわからないだろうが、君のような少年なら、いつかわかる時が来る。忘れないように、心のどこかにしまっておきなさい。」と言った。そして自分は腹を大切にしている。身体の奥を大切にしている。だから表はこんなありきたりのもの(白の胴衣)を着ていても、他人に見えない内側には、いいものを身につけるよう心がけているのだと、白の胴衣をはだけ、下に着ている金糸のきれいな模様の着物を見せてくれた。
 漢文の先生と私の担任の先生がとびこんで来て、私をテントから連れ出そうとした。そして山本東次郎に、監督不行届で申し訳ないと平身低頭あやまった。
 山本東次郎師は、いまこの少年と大切な話をしているのだと言った。
 私はその時、師が見せてくれた翁の表情が変化した謎も、腹芸の何んたるかも理解できなかった。だが忘れないようにと言われた通り、その不思議をいまに至るまで忘れたことはない。
 それに少年≠ニ呼ばれたことも、初夏の緑を含んだ光と共に鮮烈な印象で私の中には残っている。後にも先にも"少年"などと呼ばれ方をしたのは、その時以外なかったから。

[次号に続く]


(注)数十年後、翁の面の不思議と、腹芸を私なりに理解することが出来たことが、私の演技に対する考え方の基礎となっている。