果無山脈のふもとにくらす縄文人たちは、塩と交換するために毛皮や山の幸をたずさえて海辺のムラへ。山のムラと海のムラは、縄文の昔から交易の道でつながっていた。その頃、中国大陸は戦乱の世。戦火をのがれた中国や朝鮮の人々は、稲作という新しい文化を海の道をとおり日本へもたらした。
米づくりには水が欠かせない。大きな川のほとりでは水にこまることはないが洪水がつきもの。山あいの村では洪水の心配はないが、小さな谷川から水をひいて田んぼをつくる。子や孫の未来のため豊かな村をめざして山の斜面に段々の田んぼをひらいた。明日への夢が彼らのエネルギーだったのだ。
1854(安政1)年の安政南海地震の時、紀州広村(いまの和歌山県広川町)を津波が襲った。家も田畑も流され、村人たちはその土地でくらす希望をなくした。広村に生まれ、江戸で醤油屋を営む浜口梧陵は、私財を投げうち、大津波にも負けない堤防づくりを決意する。村人たちは安心してくらせる自分の村をつくるため、毎日堤防づくりに集まった。そして4年後、高さ5m、長さ約600mの「広村堤防」が完成、世界で初めての津波除け堤防だ。それから88年後、津波が再び襲ったが、堤防はびくともせず村を守った。
日本は山あり谷あり、すんなり道路はつくれない。川にぶつかりゃ橋を架け、山にぶつかりゃトンネルを掘る。阪神淡路大震災の最中に建設真っ只中だった明石海峡大橋は、世界最長の地震に強いサスペンションブリッジとして完成した。道は最後に港にたどりつくが、そこからまた海の道が外国へ、世界へとつながっていく。道は新しい暮らしと時代をつくってゆく。